圧巻の雛人形に感動する「可睡斎ひなまつり」~素敵なシーンウォッチング98
♪灯りをつけましょぼんぼりに、御花を上げましょ桃の花~春が来たことを告げるひな祭り。煌びやかな装いの気品あるひな人形は、男の子でも憧れの存在です。
日本の人形の歴史は縄文時代に遡り、当初は信仰の対象として作られたと言われています。やがて人形は神聖な力を持つもの、穢れを払うものとされ神技に使われるようになり、中世頃になると子どもが遊ぶ玩具として親しまれるようになりました。
ひな祭りの由来は諸説ありますが、中国で行われていた‟上巳(じょうし)の節句”が日本に伝わってきたという説が有力だといわれています。季節の節目である‟節”の時期は、昔から邪気が入りやすいといわれていました。そのため、五節句のひとつである‟上巳の節句”では、川で身を清める習慣がありました。この習慣が日本に伝わり、やがてひな祭りの行事である‟流し雛”となったと言われています。そして、時代とともに人形は立派になり、川に流すのではなく飾る習慣へと変化していきました。これがひな人形となり、平安時代に京の貴族階級の子女が、天皇の御所を模した御殿や飾り付けつけを使った遊びとおままごと遊び‟ひひな遊び”と合わさり、ひな祭りの形ができあがりました。
その後、江戸時代に入って女の子の健やかな成長としあわせを願うための行事として定着し、今の形式に至りました。ひな祭りが3月3日に定められたのも、江戸時代の頃だといわれています。
今回、伺ったひな祭りの会場は、遠州三山の一つで袋井市久能にある曹洞宗(そうとうしゅう)の仏教寺院“可睡斎(かすいさい)”です。山号は萬松山(ばんしょうざん)。本尊は聖観音(しょうかんのん)で寺紋(じもん)は丸に三つ葉葵(みつばあおい)。江戸時代には東海大僧録として三河国、遠江国、駿河国、伊豆国の曹洞宗寺院を支配下に収め、関三刹(かんさんさつ)と同等の権威を持ちました。
可睡斎は供養を終えたひな人形たちに新たな命を吹き込み、平成27年(2015年)から「可睡斎ひなまつり」を開催しています。一番の見どころは、可睡齋の迎賓施設として昭和12年(1937年)に完成した、国指定の登録有形文化財、瑞龍閣(ずいりゅうかく)の大広間に飾られた、天井まで届きそうな日本最大級の32段約1200体のおひな様です。驚くことは大広間に飾られたおひな様は、実は人形供養で全国から持ち込まれたものということです。滝の様におひな様が流れ出してくるかの様な迫力。よく見るとどれもが違った表情をしていて、一体一体の顔がきちんと見えるように、男雛女雛が整然と飾られています。もちろん三人官女、五人囃子、右左大臣、仕丁(しちょう)の人形も飾られ、大広間が狭く見える錯覚に陥るほどです。
可睡斎は、応永8年(1401年)に如仲天誾(じょちゅうてんぎん)禅師(ぜんじ)が山号を「萬松山(ばんしょうざん)」、寺号を「東陽軒(とうようけん)」として開山しました。
ではどうして“可睡斎”と呼ばれるようになったのでしょうか。その由来は、11世である仙麟等膳和尚(せんりんとうぜんおしょう)の時代に遡ります。家康の幼少期から長い縁を育んでいた11代目の住職は、家康に呼ばれ城を訪れますが長い道を駕籠に揺られた疲れから眠ってしまいます。「家康との面談で寝るとは無礼である!」と激怒する家臣達に、家康は叱る事なくにっこり微笑んで「和尚我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚、眠るべし」と言って家来を治めたと言います。この様子を見聞きしていた侍達が、仙隣等膳和尚様のことを“可睡和尚”(お殿様の前で眠ることを許された和尚)と呼ぶようになり、その日からこのお寺は、“可睡”(眠ってもいい)斎(寺)と呼ばれるようになったそうです。家康をわが息子の様に愛し、家康もまた和尚を愛したという心温まる逸話です。
さて、家康公が特別な存在とした可睡斎。ここで供養されている煌びやかで雅やかなひな人形は、ひな祭りのこの時期にだけ瑞龍閣の大広間を始め、お寺の様々な場所に置かれます。飾られた人形たちを興味深く見学していると、どの人形たちも見る者を歓迎しているかのように、穏やかな表情をしているのです。数えきれないほどのひな人形を見学していてその理由に気が付きました。この可睡斎の人形たちがとても大切にされているからだと!
今回の素敵なシーンは、ひな祭りの為に一か月かけてひな壇に並べられる1200体のひな人形に込められた‟人々の想い”です。