全国で唯一現存する関所建物で、国の特別史跡に指定されている新居関所 ~素敵なシーンウォッチング96

関所と聞いて思い浮かべるのは、「水戸黄門」「大岡越前」などの時代劇。ましてや今もそのままに関所が残っているとは露知らず、現地に赴いてその存在に俄然興味が湧いたのでした。

静岡県湖西市新居町新居、国道301号沿いの大きな門が目印となっている新居関所跡(あらいせきしょあと)は、江戸時代の東海道の関所のひとつで、正式名称は今切関所(いまぎれせきしょ)と言い、慶長5年(1600)に設置されました。それから元禄15年(1702)まで幕府により管理され、以降は吉田藩に移管されます。当初は今切(遠州灘の浜名湖開口部)近くにあったのですが、地震・津波により二度移転し、宝永4年(1707)の大地震の翌年に現在地へ移りました。その後、嘉永7年(1854)の地震で倒壊したため、安政2年(1855)から同5年にかけて改築したものが現在の建物で、明治2年(1869)、関所廃止令により全国の関所は取り壊されることになりましたが、新居関所面番所(あらいせきしょめんばんしょ)は小学校や役場として利用されました。

関所(正しくは関所跡)に入るのはもちろん初めてのシーンウォッチャーズ。古めかしい平屋の建物は、入母屋造りの本瓦葺きで時代劇のような重々しさはなく、どちらかと言えば簡素で整った風情が役所感を醸していました。しかし、中を見学させてもらうと関所感がより一層盛り上がります。

建物内に入ると、関所の一番の見所、面番所(めんばんしょ)という旅人を取り調べる20畳と25畳の2つの部屋があります。そこには当時を再現したお役人のリアルな人形が最初の部屋に3名、奥の部屋に4名鎮座しています。お役人の後ろには、役所に常備されていた弓25張、鉄砲25挺、矢箱2荷、玉薬箱2荷、長柄10本の武具の一部が並べられていて、否が応でも緊張感が漂います。常時、数十人の関所役人が交代で勤め、東海道を往来する通行人や江戸方面に向かう鉄砲を厳しく取り調べていたのです。

吉田藩に移管された後には、番頭2名、組足軽20名、給人8名、下改8名、関所足軽2名、改女2名、水主頭(かこがしら)1名、賄役1名など40名前後が交替で勤務していたそうで、自分が旅人でこの関所を通ると想像すると、まっとうな通行手形を持っていても想像以上に緊張するのだろうなと感じさせるリアリティーがありました。

中学校の日本史で習った江戸時代の歴史には全く興味が湧きませんでしたが、もしこの新居関跡に遠足で来ていたら、もっと日本の歴史に興味を持てたのだろうとちょっと残念な気持ちになりました。

見所はもうひとつ、令和2年に完成した‟女改之長屋(おんなあらためのながや)”。歴史の授業でインパクトある言葉だったので今でも覚えていた‟入り鉄砲と出女”の意味をこの建物に入ってあらためて知ることになるのです。‟入り鉄砲と出女”とは、幕府が諸大名の謀反を警戒して、江戸に持ち込まれる鉄砲と江戸にとどめていた大名の妻女が国元に帰るのを関所で厳しく取り締まったことを言います。その取り締まりをおこなったあらため女の住居が‟女改之長屋“で、やはり面番所と同じく綿密な調査によって時代検証がなされているので、資料施設と言いながらもどこかで生々しい感覚が再現されているのです。

施設の案内をしてくださったボランティアの切池さんの分かりやすくそれでいて深い解説のおかげで、江戸時代という歴史上の話がそれ程遠くない過去だったように感じるようになりました。

新居関所は全国で唯一現存する関所の建物であり、国の特別史跡に指定されている江戸時代の交通史跡として極めて重要な史跡です。今回の素敵なシーンは、関所廃止令の潮流に飲み込まれず、小学校や役場としてその姿を変えながらも現在に生き残った新居関所そのものであり、このプロジェクトに関わって新居関所を国の特別史跡に認定させた人々です。

湖西市観光振興協議会ウェブサイト

国道301号線沿いにある新居関所の全景
発掘調査で国道をずらして現在の位置に設置された門
入母屋作りの本瓦葺きの時代を感じさせる面番所の建物
当時の取り調べをリアルに再現した面番所内部
面番所の建物には縁側があり、雨戸を開いて光を取り入れていました
令和2年に完成した女改之長屋の看板
これまたリアルなあらため女の人形
資料館の内部には貴重な当時の物が展示されています
当時の新居関所が描かれた絵画
鉄砲改めで没収された?当時の鉄砲
当時の現物、女手形
国道301号線に威風堂々と立つ新居関所跡の看板