祝!日本遺産に選ばれた弥次喜多道中、藤枝市の足跡を辿る VOL 4 葛飾北斎も食した千貫提の“染飯”で旅の疲れを取る! 素敵なシーンウォッチング FILE36
今回で最終回となる「祝!日本遺産に選ばれた弥次喜多道中、藤枝市の足跡を辿る」を締め括るのは、東海道の藤枝宿と島田宿のちょうど中間地点に位置する瀬戸地域にかつて存在した千貫提(せんがんづつみ)、そしてその千貫堤があったあたりの茶屋で、戦国時代から売られていた東海道の名物の染飯(そめいい)にまつわるお話です。
旅の楽しみ、見る味わう泊まるを、今でこそ誰もが気軽に堪能できるものとなりましたが、江戸時代には、富士山の景色や紅葉の美しさはあれども、ファミレスやビジネス・ホテルはありませんでした。しかも徒歩での長旅は、ともすれば病気や怪我をするリスクがあったはずです。そんな厳しい旅の試練の中で、ご当地の名物は旅人のささやかな楽しみだったはずです。
最初に紹介しますのは、当時の東海道藤枝の宿で御当地名物として名を馳せていた“染飯”という今でいうスタミナ・ヘルシーご飯なのです。染飯とは、強飯(もち米を蒸したもの)を”くちなしの実”で黄色く染めてすりつぶし、小判型などに薄く延ばして干して乾かしたものです。またくちなしの実は漢方薬として知られていて、徒歩で長い道を歩く旅人にとって足腰の疲れを取る効果がある食べ物として知られていたそうです。今となっては、栄養ドリンクや強壮剤、はたまた湿布薬などヘルスケアの商品が薬局で簡単に手に入りますが、当時の旅人はこの染飯を頼りにしていたのだと思ったりもします。
そしてこの地域の歴史を辿る上で忘れてはならないものに、千貫提があります。千貫堤とは、大井川の氾濫から田中藩領の村々と田中城を守るために江戸時代初期に瀬戸の立場の東側に築かれた堤防です。今から約400年前の慶長9年と寛永4年に起きた大洪水により、この地域一帯が甚大な被害を受けたことから、水野忠善が堤防を築いたのです。当時、瀬戸の立場の周辺にはいくつかの小丘陵が島状に点在しており、それらの小丘陵を結ぶように堤防が建設されたそうです。堤防は幅32m、高さ3.6mほどと推測され、千貫(一貫は一文銭千枚・今の貨幣価値にすると2億円)もの莫大な費用がかかったことから「千貫堤」との名称がつけられたと伝えられています。
このお話、今回の取材で「千貫堤・瀬戸染飯伝承館」を作り運営されている染飯千貫保存会の皆さんに伺ったもので、当時の人々が今では想像もできないような英知を尽くして人力で築いた、村人の命と財産を守る堤防の存在を後世に伝えていこうという、今も当時も変わらない郷土愛から生まれたものです。清水会長は「この伝承館があることで、千貫提の存在も染飯のこともこれからの世代の人たちにも受け継がれていくはすです。私たちの先祖が守り続けてきたこの瀬戸地区の豊かな恵みを、これからもしっかりと守り続けていきたいものです」と話されていました。
さて、今回の素敵なシーンですが、千貫提と染飯ではなく、この地域に根差した郷土愛を広めていこうとされている大先輩たちの活動こそが、「素敵だなー」と感じました!日々の忙しさで忘れがちな地元の大切な場所や出来事。すべての人に存在する先人たちが築き守ってきた故郷を、今一度振り返る機会を与えもらったことに感謝したいです。
4回に渡ってお送りして参りました「祝!日本遺産に選ばれた弥次喜多道中、藤枝市の足跡を辿る」はいかがだったでしょうか?トンネルを抜けるとそこは岡部の宿だった「宇津ノ谷峠、蔦の細道」、山道で滑落の危険を乗り越え辿り着いた「大旅籠柏屋」、魅惑のお経に引き寄せられた「大慶寺の久遠の松」、そして初めて食した染飯をふるまっていただいた健康ご長寿な先輩たちが運営する伝承館で伺った「千貫提・瀬戸の染飯の話」。どれもが印象的で知り得なかったドラマがあり、そこでしか触れ合えない人々との貴重な出会いが生まれました。お世話になった方々、本当にありがとうございました!
取材協力
岡部町観光ボランティアの会
会長 高田 絋宇 さん
大旅籠柏屋
館長 大石 住弘 さん
大慶寺
住職 大場 唯央 さん
染飯千貫保存会
会長 清水 強 さん
会員 浅羽 秀雄 さん
石野 直美 さん
大石 一郎 さん
垣内 利夫 さん
杉本 京子 さん
田中 省三 さん(五十音順)
名誉会長 曽我 俊司 さん
藤枝市 市民文化部 岡部支所
支所長 牧田 展治 さん
藤枝市 市民文化部 スポーツ・文化局 街道・文化課
課長 飯塚 正典 さん