隠れ里の修善寺温泉の夕暮れ! 素敵なシーンウォッチング FILE46

立春が過ぎ、暦の上では春の到来となりました。江戸時代に出版された暦の解説書『暦便覧』(こよみびんらん)では、立春とは、”春の気立つをもってなり”と説明されています。どういった意味かと言うと‟寒さがあけて春に入る日”冬至と春分のちょうど半分にあたる立春は、春らしさを感じる最初の日ということです。

暦の上では立春から春という扱いになりますが、春とは名ばかりの…といった言い回しが常用されるとおり、寒さはまだまだ続きます。それでも、日が落ちるのも少し遅くなり、沈丁花やツバキ、モクレンなどの蕾も日ごとに大きくなって、春の足音は確実に感じられます。また立春から春分の間に、その年に初めて吹く南寄りの強い風を春一番と呼びますが、この春一番も季節の移り変わりの象徴として春のニュースとなります。

さて今回の素敵なシーンですが、伊豆半島で最も歴史がある修善寺温泉です。この地の魅力を紹介させてもらう前に、‟修善寺と修禅寺“の字の違いについてお話しさせてもらいましょう。修善寺温泉街の真ん中にあるお寺が修禅寺です。807年に弘法大師空海が開基した古刹(由緒ある古い寺)で、正式な呼称は、福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ) 略して福地山修禅寺と呼ばれています。

ではどうして修禅寺が修善寺となったのか?俗説では言い易い言い換えが起きたからだといった説がありますが、当時将軍が殺されるという、不吉なことをぬぐうための改名であったという説が有力だと思います。修禅寺や桂川のほとりにある藍染将軍地蔵の案内板にも書かれてありますが、源一族の間で起きた残酷な骨肉の争いは、当時の人たちには恐ろしい出来事として捉えられていたはずです。そこでお寺は元の禅の字を名乗り、庶民は不吉を嫌がったので善という字に改めたというお話です。

そもそものこの地の発展は、‟独鈷の湯“という弘法大師が病父の体を洗う少年のために、手に持った独鈷杵で霊泉を噴出させたことがきっかけだと言われています。(今は移動してすぐ近くには足湯として利用できる河原湯があります)日本百名湯に選ばれている名湯で、江戸時代中期頃から独鈷の湯を始め、石湯、箱湯、稚児の湯などを外湯として周囲に宿泊施設が作られました。江戸時代後期に製作された諸国温泉功能鑑(温泉番付)では‟豆州朱善寺湯”として東之方前頭に格付けされていたほどです。明治時代に入り交通網が整備されると多くの文化人が利用したことから一躍脚光を浴びることになりました。

取材は、緊急事態宣言が発令される前の極寒の夕暮れ。温泉街という風情がどことなく冬の寒さを和らげてくれていましたが、ご時世でしょうか、人影はまばらで浴衣に丹前でそぞろ歩きという出で立ちにはお目にかかれませんでした。それでも若いカップルが足湯を楽しんだり、サークルの集いでしょうか、桂川沿いの遊歩道を探索する姿が見受けられました。また、竹林を縫うように美しく整備された長さ400mほどの竹林の小径は、数メートルあろうかという竹林に上空まで囲まれた和の空間。中央部に置かれている竹製の円形ベンチに寝転がって空を仰ぐと、竹が風に靡いて起きる葉音に全身が包まれます。すると一瞬どこかの星にワープした様な錯覚が起きて、時空を飛び越えて時間の感覚が消えていました。脳裏を過ったのはデヴィッド・リンチ監督の映画「デューン/砂の惑星」のワンシーン。修善寺温泉には、竜宮や浄土といった隠れ里の様な、現世と切り離された世界があるような気がしました。

陽が落ちるとより輪郭を強めて白く浮かび上がる湯けむりが、隠れ里の表情を一段と強めてくれます。まだまだ冬の寒さのど真ん中の温泉街でしたが、これから季節が進んで行くとその表情はまた違ったものになって行くのでしょう。春が待ち遠しい冬の第4コーナーです。

今回の素敵なシーンは、湯けむり香る修善寺温泉の夕暮れです。

夜の装いになった修禅寺
山門を守る金剛力士像はなんと平安時代の作品
冬枯れした境内もなかなかに侘びていておすすめ
独鈷の湯の近くには足湯が備えられている
桂川沿いにある竹林の小径
手入れされた竹がアーチを描き、竹に包まれた感覚になる
修善寺温泉の中心部、日が暮れるにつれて幻想的になる

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